ここ2年程「停滞」とも言える状況にあった日本のエレクトロニック・ミュージックが再び動き出したように感じられる。今年のFree Dommuneに出演したラインアップには、日本の今のテクノを伝えるDJ Nobuや破壊的なアシッドサウンドを提供するNHK’Koyxenなどが巨大な幕張メッセのメインステージに出演。日本のアンダーグラウンドシーンが健全であることをしっかりと証明した。そしてRyo Murakamiのここ数年の進化も彼らと同様の力強さを誇っている。最近リリースされたデビューアルバム『Depth of Decay』は、ダンスフロア向けの4/4のリズムを軸としたこれまでのディープハウス路線から脱却し、ミニマルでアブストラクトなアプローチが取られている。

MurakamiはSteve Bugを通じて世界中に認知されたアーティストだ。BugのミックスCD『Fabric 37』に収録されている“Monument”を始め、BugのレーベルDessousとPoker Flatから2007年から2009年にかけて数枚のシングルをリリースしている。また、それ以前にもDamian LazarusのCrosstown RebelsのサブレーベルであるRebeloneからP.A.N名義で作品を発表している。尚、P.A.N名義はそのまま自身とDJ Pi-geとSisiの3人で運営するレーベルPanrecords（Discogs上での表記。他の同名レーベルと混同しないこと）に引き継がれており、2009年の“Lost It EP”、2011年の“Monophonic EP”などMurakamiの最近の作品は主にPanrecordsからリリースされている。

東京出身のMurakamiは、数年前に大阪に生活拠点を移している。大阪は風営法のあおりを真っ先に受けた都市であり、アメ村を中心とした数々のクラブが閉店、もしくは営業形態の変更を強いられたが、時代遅れの法律によって抑圧を受けたにせよ、この都市のクリエイティビティそのものが失われたわけではない。ゆっくりではあるがその呼吸は続いており、Murakamiも今回のアルバム制作において、大阪という都市が大きな影響を与えたと振り返る。「僕はDJほど直接的にクラブシーンには関わっていませんが、東京のシーンに大きさや層の厚さを感じる一方で、大阪は自由に音楽と接しているなという印象を持っています」

彼の感じたこの「自由」が、本人に今までの「ビート」を捨てる決心をさせたのではないだろうか。本人が『Depth of Decay』を語る姿からは、外部からのプレッシャーから解き放たれ、音楽に対してより個人的なアプローチを取ることを採択した1人のアーティストが浮き上がってくる。また本人自身も大阪への移住がこの変化を生みだしたことを次のように認めている。「東京から大阪に移った時に、生活スタイルの変化がありました。もっと音楽に誠実に向き合えるようになったように感じて、自分の内面を掘り起こすような形でトラックを作るようになりました。突き詰めていくと言うか、シンセの音質やエフェクトの微妙な質感を自分の求めている感じになるように繰り返し作業していきましたね」

そして、定型的なディープハウスから『Depth of Decay』で聴けるよりミニマリスティックな方向へという変化について何か大きなきっかけがあったのかという質問には、「ここ数年の僕の音楽に対するアプローチに変化があったと指摘する人はいると思います。でも自分自身ではスタイルの変化は特に意識していなかったんです」と返答している。Murakamiは制作の進め方についても大きな変化はなかったとしたが、「オートメーションを使わないでエフェクトを変化させることで、フレーズやリズムを構築していく時があります。一発録りすることもありますね」とコメントしており、即興性を以前より重用しているのは確かなようだ。

その作風だが、初期作品はMPC1000のような機材を使ったヒップホップに対する愛情が感じられるものだが、近年の作品においては、Roland RE-201、Tascam RS-20B、Malekko Ekko 616などのリバーブやディレイをはじめとした各種エフェクトが制作の大きな部分を占めている。また今回のアルバムはMantis名義で活動するMossが所有するRemold Studioでマスタリングが行われた。「今まで何人か有名なエンジニアにマスタリングしたもらったこともありましたが、あまり仕上がりに満足したことがなかったんです。でも今回のマスタリングで、エンジニアとアーティストでどういうサウンドにしたいかという共通理解をちゃんと持つことがいかに重要かということを感じました」

Murakamiがインタビュー中に繰り返し口にした「繊細さ」は、アルバム全体を通して感じることができる。各トラックはリスナーを繊細な世界観で包み込むようなサウンドスケープとなっており、その世界では、フィードバックノイズやリバーブのひとつひとつが存在感を放つ。「自分自身にある程度の成約を設ける以外、アルバムに関するコンセプトというのは特にありませんでした。トラックを制作していく中で、僕が音楽で表現した世界観のようなものがはっきりと見えるようになってきたんです」その世界観が一体どのようなものなのかをこちら側が正確に理解することは難しいが、アルバムが表現しているダークな雰囲気から、その世界観が決して明るいものではないということは想像できる。アルバムは時としてアブストラクトな曲調からインダストリアルな曲調へと変化していくが、本人は制作時に自分が見てきた環境がこの雰囲気の創出に影響を与えたと説明する。尚、その環境が何なのかについて本人は具体的には触れておらず、アルバムの持つミステリアスさに一層の厚みが加わる。

また、アルバムのタイトル『Depth of Decay』からも、いわゆる音楽理論上の「ディケイ」という意味の他に“ダーク”なニュアンスが感じられる。「リバーブやディレイ、シンセサイザーのサウンドの動きを言葉で表したかったんです。あと腐敗という意味もあります」Murakamiはその背景について説明する。また今回のアートワークには関西を拠点に活動する画家、益村千鶴が手掛けた油絵が用いられており、優しさや暖かみが感じられないような独特の雰囲気を携えているこの絵からも彼の言う「腐敗」を感じることができるが、アートワークについては次のような控え目な説明にとどまった。「益村さんは、作品の印象は受け手1人1人のものと思っている人なので、彼女自身が作品のテーマを決めることはありません。だから僕自身も今回のアートワークが何を意味しているのか分からない部分があります」―そしてこのコンセプトは『Depth of Decay』のMurakamiの音楽そのものにも用いられている。このロールシャッハテストのようなサウンドスケープは、リスナーが参加するという点にウェイトを置いており、リスナーが自分たちの感情を投影できるようなアプローチが取られている。

今回のアルバムはこのように難解で複雑な雰囲気を醸し出しているため、ライブでの再現は難しいのではないかという疑問が生まれるが、Murakamiはその点について、「ライブで一番難しいのは、サウンドシステムとの折り合いをつけて上手く鳴らす点ですね。聴いている人にどう伝わるかに関わってくるので、常に気を使っています。ライブではアルバムよりも僕の世界観をより重視している部分があるので、アルバムに収録されていないトラックやサウンドを織り交ぜてセットを作っていきます」と説明すると、「今回のツアーは全国9カ所を回るのですが、今まで行ったことのない地域へも行くので、初めて行く場所で自分のサウンドがどう受け取られるのかとても楽しみです」と付け加えた。

ここ数年のMurakamiはPanrecordsの運営に注力し、自身の作品も主に同レーベルからリリースしていたが、今回のアルバムは自身のニューレーベル『Depth of Decay』からのリリースとなっている。この点についてMurakamiは、「自分の音楽を表現しきるには、イチからレーベルを立ち上げるのがベストだと思ったんです。それで『Depth of Decay』を立ち上げて、アルバムをリリースすることにしたんです」と説明している。

一方、昨年Sven WeisemannやDennis Uprock（aka Dennis Bøg）などの楽曲を収録した12インチをリリースしており、今後の動向が注目されるPanrecordsについては多くを語らず、次のように回答するに留まった。「今の段階では特に何も決まっていません。ただ、国内外のアーティストと話をさせてもらっています。常にアンテナを立てているので、タイミングを見ながら、素晴らしいと思えるトラックをリリースしていければなと思っています」

『Depth of Decay』がリリースされた今、今度は世界のアンテナが彼の音楽を受信することになるだろう。