「Clunk」と名付けられたRachad Beckerのスタジオは、ベルリン・クロイツベルクのとあるヒンターハウス（集合住宅の奥側）内にある。オープンスペースなそのスタジオは広く、また前面の壁がほぼすべて窓になっているため非常に明るいが、中央に置かれている数々の機材とスピーカーによって鋼鉄製のドア付きの地下室のような印象を与える。また各機材のノブやフェーダーはBeckerが手を伸ばせば触れるような位置にしっかりと考えられた上で配置されているようだ。柔らかい口調で知的な専門用語を操るBeckerだが、文字に起こしてしまうと彼の言葉に込められた質の高いユーモアや暖かみが消されてしまうことがあるため、その人物像は中々伝わらないだろう。

マイクや難解そうな機材、そして数々のスタジオ用具がまるで中央の機材群の衛星のように壁沿いに配置されている。Beckerがコーヒーを淹れてくれている間、筆者はその機材の数々をぐるりと見て回ったが、その中で面白い機材を見つけた。ケースの上に置かれていたトロンボーンだ。「ちょっと前にトロンボーンの演奏を始めたんだよ。凄く難しい楽器だけれど、素晴らしい楽器だね。僕が長年エレクトロニックで生み出したいと思っていたサウンドのほとんどはトロンボーンで簡単に再現できるってことに気が付いたね」Beckerは自身の音楽的背景を語る際にこの楽器についてこう説明した。

Beckerは長年に渡り音楽を生業とし、また同時に音楽の魅力に憑りつかれている人物だ。本人は数十年前にThrobbing Gristleなどのバンドを聴いたことで「自分の世界観のあらゆる部分が変わり」、音楽にのめり込んでいったと振り返る。「趣味だろうと何だろうと、何かをしながら音楽を聴くなんてできない。というのは、自分がやることすべてが音楽と関わっているからさ」

Beckerは過去15年に渡り、マスタリングの世界におけるロックスターとも言える評価を得続けている。テクノのヴァイナルに刻まれた溝にマニアックなこだわりを見せる人たちにとって彼はセレブであり、彼の名前がクレジットされている作品はHard Waxの「TIP!」と同様、その内容が保証されていることを意味する。しかし、そのような日常の業務から離れた彼自身の音楽（彼の音楽は彼がマスタリングを手掛ける作品とは大きく異なる）について話す彼の姿は、職人というよりはキャラクターの造形や作風、そして構成に拘る作家に近い。トロンボーンは楽器だが、Beckerはむしろ文学的な表現手段としてトロンボーンに興味を持っているようだ。「才能があれば小説を書いていただろうね。でも言葉を紡ぐよりも、サウンドを形作る方が上手いんだ」

「自分の音楽がエクスペリメンタルだとは
思っていない」

偉大な文学作品と同様、BeckerがPANからリリースしたフルアルバム『Traditional Music Of Notional Species Vol. 1』は挑戦的だ。分かりやすいメロディーやリズム構成から解き放たれたノイズ群がうめくように、そして船酔いを起こさせるかのように34分間揺れ続けるこの作品は、今年リリースされた音楽の中で一番難解な作品かもしれない。リスナー側がしっかりと向き合って聴かざるを得ないこの作品は、何かの片手間に聴くのは難しい。また、たとえそれが出来たとしても、作品の流れについていけないだろう。「誰かが『ずっと頬を舐められているような音楽だ』とレビューしていたよ」Beckerはこの作品についてこう説明するが、そのレビューは正しい。『Notional Species』はペロペロと顔を舐め続ける子犬のようではあるが、その目は赤く、牙が覗いている。数回に渡る延期（PANのオーナーBill Kouligasにかなり催促されたようだ）の後にようやく先月リリースされたこの作品は、非常に難しいとされるマスタリングの面から解説する方がむしろ簡単に思える－こう書けばこの作品における「文法」がいかに難しいかが分かるだろう。

しかし、Beckerはただひたすらノイズを生みだしている訳ではない。「自分の音楽がエクスペリメンタルだとは思わないんだ。僕は実験している訳じゃないから、そういう意見については賛成しかねるね」こう語るBeckerは、『Notional Species』と同類に括られる音楽の大半も特にエクスペリメンタルではないとし、そのような音楽は時としてワイルドでアブストラクトに響くエレクトロニックな合成音で構成されているが、既存のサウンドや構成を真似ているようなものだと言う。「アニメーションを取り入れた映画を見た時の落胆に似ているよ。彼らは結局伝統的なカメラ手法を使用しているにすぎない。なぜ他のオプションや可能性を使って、本物のカメラでは撮影できないような何かをやろうとしないんだろうって思うのさ」

また彼の音楽が実験的ではないことを裏付ける理由はもうひとつある。彼の音楽にはノートが存在しないが、実際はスコアから制作がスタートするのだ。Beckerは数年前から「The Brain」と呼ばれるソフトを導入し、自らのアイディアをまとめ続けている。BeckerはPCのモニター上にそのいくつかの例を展開すると、「（The Brainは）基本的にはマネージャー用のソフトだと思う。名前がその機能を物語っているよね。つまり、自分の考えを放り込んで、それらを自分でコントロールし続けられるようなシステムなのさ」と説明する。The Brainはサウンドやノートについて考えるのではなく、アイディア自体を膨らませていくソフトという訳だ。「色々な形で表示できるから、2つのアイディアがあった時に－『親』の反対語はなんだっけ？」

「子供です」

「そう、これは子供の考え方なんだよ」Beckerは笑う。「色々な方法で2つのアイディアを結び付けて、そこに関わるすべての属性を表示することができるんだ。特定の属性を表示して、複数のキャラクターがその属性を共有しているならば、そのキャラクターがすべて表示され、さらに他の関係している、もしくは関係していない属性も表示されるのさ」The Brainではすべてが明瞭、または不明瞭に関連付けられて、その関係性がキャラクターを形成していく。そしてタイミングが来た時にそのキャラクターに特定の名前を付けるというわけだ。「スコアを進めていくと、最終的に名前がいくつか組み上がる。その名前がキャラクターの持つ特徴を教えてくれると同時に他のキャラクターと共有する特徴を示す。僕はそれを元にサウンドを作りだしていくのさ」

その「サウンドを作り出す作業」で、Beckerは自分の使うできるだけ多くの機材の多くから、同じキャラクターを生みだそうとするようだ。私がサウンドのキャラクター化は可能なのかと問うと、「時間軸の変化のようなものがキャラクターだよ。エンベロープやハーモニーの展開は言葉で言うところの音節のようなものなんだ。こういう時間軸の変化を僕は意識的に、または自然に求めていく。これらはスピーチや呼吸やパフォーマンスに似ていると思うし、肉体性があると思うんだ」

キャラクターが完成すると、今度はそのサウンドが使われる楽曲の制作に入る。Beckerは過去数年に渡り劇場用の音楽制作に携わっており、『Notional Species』に関しても、自分がすべての役を演じる演劇のディレクターのような立場にたって制作していった。アルバムに収録された8曲すべてに共通しているのは、レコーディングをスタートしたあとにスタジオで演奏し、それを最低限のミキシングとポストプロダクションで完成させるというプロセスだ。「ただパーツやトラックをレコーディングするんじゃなく、プレイ中における決定権を自分が持てることが僕にとってのレコーディングの楽しさだね」

Beckerはマルチトラック時代以前、つまりミスや演奏の修正が簡単ではなかった時代の音楽の長年のファンで、Clunkをスタートさせた当時は2チャンネルだけでの制作を心掛けていたと言う。「ミス、そしてそれを含めてもいいんだという勇気が、音楽を普及の名作にしてくれる時がある。でもこういう姿勢は今の音楽ではほぼ聴くことができないよね」

『Notional Species』を聴いてある種の当惑を感じていた私にとって、彼の音楽がどのように生まれたかを知ることは興奮を覚えるものだった。このような奇妙なサウンドの「流れ」とでも言うべき彼の音楽に「個性」が埋め込まれていることが理解できれば、大きなうごめきの中から生まれる個々のサウンドに耳を傾けるようになり、またアブストラクトでマニアックなサウンドに何となく理解できる言葉のような響きが生まれ始める。Beckerはアルバムの聴き方や内包されたメッセージの読み方が「ひとつしかない」ような状況を望んでいない。「マニュアルなんて必要ない。どうやって制作したかというプロセスだけで作品を見て欲しくない。作品はそれだけで成立して欲しいんだ」

ここまで活き活きとして自由な彼の音楽が「難解だ」というだけで評価を固められてしまうべきではない。そういう固まった視点で見てしまえば、その本来の魅力を見落としてしまうことに繋がるからだ。Beckerの作品のような音楽の魅力を理解できれば嬉しいだろう。筆者はトロンボーンについて再び考えてみた。トロンボーンはノート間の微妙なノートが出せる楽器であり、また西洋のスケールを破壊し、既存のトーンやティンバーに対抗することができる楽器だ。そう、まさにBeckerのような人物には向いている楽器なのかも知れない。しかし、本人はそのような深読みは危険だと言う。「僕は12平均律の音楽を卑下したことはない。ピアノは調律されていて、微分音が出せないから使わないという作曲家がいるけれど、僕は別にそう感じている訳じゃない。単純に僕にとって12平均律の音楽は自然じゃないってことなんだ」