「去年か一昨年は、身の回りや自分自身の生活に普段よりも多くのことが起こっていたんですが、1つの角度からだと上手く説明できないようなことでした。それに、もっともらしく聞こえる話というものは必ずしも僕が賛同することだとは限りませんからね」

物思いにふけるように食べかけのクロワッサンの残りを手に取りながら、TJ Hertzがニュー・アルバム『Flatland』の背後にあるアイデアのいくつかを理路整然と説明している。「ある意味では僕が持っている世の中に対する視点の中で、誰の発言にも影響されていない部分がどれくらいあるのか、ということを認識しようとしていたと言えるかもしれません。それに、僕が違う友達を作っていたり違う場所に暮らしていたりしたら、世の中を全く違う見方で捉えるのがどれだけ簡単だったか、ということも考えていました。すごく…うーん…かなり切り離した視点から見つめることだったと思います。具体的な例を考えさせてください。今、僕は曖昧なことしか話してないですよね」

その時のHertzは全く曖昧ではなかった。それに、遅めの午前からやりだしたミーティングで彼が曖昧になった瞬間など無かった。数日前にもラーメン屋で長時間インタビューしていた間でさえ（彼にしては珍しくBerghainではしゃぎ疲れてぼんやりしていた時だった）、彼の言葉1つ1つは注意深く選ばれていた。そして長い沈黙の後に新たな考えが出てくるたびに、あることを1つ話すと他のことが数え切れないほど失われていく、という意識を彼は持っているかのようだった。

我々が世界を見つめる方法にこうした恣意的な性質があることは、物事をシニカルに感じさせてしまうのではないか、私は彼にそう尋ねた。「いえ、もっと世界とつながりを持たせてくれますね。同じ事柄でもどの角度から光を当てるかによってどんな風に異なる影が生じるのか、とても興味深いと思います」

私がHertzをベッドから引きずり出したのは今週これで2度目だった。それは『Flatland』に関する質問がまだあったからだ。このアルバムは推考、再構想、そして追憶が密接に結実したものだ。より分かりやすい輪郭を持ったダンス・フロアの12インチでHertzは知られているが、『Flatland』はその輪郭の周りを「かもしれない」と「だったかもしれない」が霧のように集まる鏡の間であるかのようだ。「（アルバムを作るのは）最初少し難しかったです。というのも僕の作品はどれもクラブという環境で機能しなければならないという必要性に頼って作られていたと気付いたからです」と彼は説明する。「それに音楽作品において方向性が定まらない時というのは、多くの可能性が排除されるだけでなく、決断をとても単純化してしまうことがありますよね」

こうして可能性が広大に広がる領域と向き合いながら、Hertzはしっかりと時間を費やしていた。アルバムのアイデアが大きくなってきたのは2012年にまで遡る。それは彼が長期に渡って制作できずにいた頃だが、この時期を境に彼のキャリアはおおよそ前後2つのステージに分けることが出来る。まずは彼の登場期である。鮮烈なホワイト盤2枚とHessle Audioからのシングル1枚はそれぞれ、ポストダブステップに沸くイギリスのダンス・フロアにおける重要作となった。もう1つは”Agnes Demise”における軋む不協音、”Ganzfeld”における恍惚、そして”The Stitch-Up”における一貫した精巧なテクノイド路線を発表していた時期だ。ベルリンを拠点とするテクノ信者であるHertzにとってダブステップやそこから派生した音楽はほんの少し触れる程度の間柄だ。そんな彼の作品は最近かつてないほどの自信に満ちてきている。しかし彼自身がやりたいと思うものを探し出すということはアイデンティティの危機の類を経ていくことを含蓄していた。

「00年代後半は自分が作りたいものは非常に機能的でストレートなテクノだとずっと思っていました。でもそうしたサウンドを作るのはあまり得意ではありませんでしたね」とHertzは回想する。「ダブステップのレコードをリリースして、そのレコードは結構いい結果を出したんです。それで『よし、いいぞ。これで僕が作りたかったものに戻ることが出来るぞ』って思いましたね。それでも機能的でストレートなテクノを作るのは上手くありませんでしたけどね。ただ単に藁をもすがる思いでした。以前、僕が何度もトライしていたことというのは、それまでに一度も上手にやった試しがないことだったんだと気付きましたよ」と彼は申し訳なさそうに笑った。「今思えば、僕は教科書どおりにやろうとし過ぎていたんだと思います。でもそのやり方が僕に合うことはこれまで一度もなかったですね。」

対照的にHertzの出世作となった作品はアグレッシブで破壊的な内容だ。その多くは確立されたスタイル上に面白いアレンジを施し、ジャンルの外側にいた人間が面白半分でその音楽を限界点まで押しやるものだった。HertzがHessleからリリースした扇動的なトラック”Cactus”。彼はこのトラックを「コメディ・ソング」、Ruskoのノコギリのようなベースラインに捧げる冗談半分の「叙情詩」だと堂々と語っている。しかし最近の彼はこうした模倣的なアプローチに意識的になっている。「聴き返してみて『本当に必要だったかなぁ』と思うトラックがあって、この前”Unglued”（「Objekt #2」収録トラック）を再び聞いた時『このトラックって実はバカっぽいよな』って思ったんです。”Agnes Demise”に対しては何故かそういう風に感じないんですけどね。たぶん”Unglued”の時はもっとホンモノに近づけるためにはとか、トラックがもう少しパワーを持つように制作するにはどうしたらいいのかとか、そういうことを考えていたからだと思います。僕は徐々にこうした馬鹿げた感覚を特徴だと思えるようになってきたと思います。そのおかげで少し楽になりましたね。これでもう特定のジャンルを笑い物にしなくてすむぞって感じです。

『Flatland』が笑いを取るために再生されることがないのは確実だ。もしこの作品にいたずら心があるのだとしたら、それはあまりにも恐ろしく謎めいていて騙されていることにさえ気付かない、という点だろう。”One Fell Swoop”や”Ratchet”といったエレクトロ・ボムのように熱狂的な場面が収録されていると同時に、”Strays”では荒涼としたランドスケープに冷たく吹き付ける風のようなメロディが用いられていたり、”Dogma”では堅牢なな展開とは対照的に恐れを知らない強烈さがあり、それによってHertzが最も満足のいく仕事となっていたりと、さまざまな内容だ。過去のObjekt作品は眩暈を起こすほどの速度と堂々たる表現を伴っていながら、答えが作品と一緒に届けられているような傾向にあったが、『Flatland』の場合は多くの問いが投げかけられている。

その全ての中心にあるのは“First Witness”、張りつめた不吉な緊張感を持つアンビエンスを伴ったトラックの1つだ。エイリアンの会話がサンプリングされているが、Hertzによるとそれは初期スピーチ・シンセサイザーのデモンストレーションとのことだ。"Who saw you?" "She saw me." "Whom did she see?" "She saw me." "Did she see you or hear you?" "She saw me." （誰があなたを見ましたか？彼女が私を見ました。彼女は誰を見ましたか？彼女は私を見ました。彼女はあなたと見たのですか？それともあなたの声を聞いたのですか？彼女は私を見たのです）ここでのポイントは、抑揚や文脈を通じて同じ言葉でも異なる意味を持つ、ということだろう。我々の知覚は変化し、異なる影響が生まれるのだ。”Agnes Demise”と対を成す”Agnes Revenge”と”Agnes Apparatus”といった揺らめくトラックや、”The Stitch-Up”を幽霊のごときネガティブ・サイドに持っていった”One Stitch Follows Another”、そして”First Witness”と”Second Witness”が形成する傾いた鏡像など、数々の場面にこの点が示されている。こうしたトラックを何度も一緒に対称比較することでその違いを発見することが出来る。微細なサウンドの併用によって不気味なデジャヴ感覚を誘発しているのだ。

Hertzはこうした考えを大げさに扱うことを躊躇っており、それよりも彼が行った工夫に意識を引こうとしていた。鏡に映したように似通った要素を持つ”First Witness”と”Second Witness”を彼は”Tomorrow’s World I & II”と呼んでいた時もあり、イギリスのカルトなサイエンス番組からサンプリングしたサウンドを使用していた。一方、”Agnes Demise”のサウンドは制作段階の最後の最後に”Revenge”と結び付けられることとなったようだ。これにより『Flatland』は静的な音楽作品としてだけではなく、延々と掛け合わされていくオルタナティブな可能性が散らばる場所としての印象を強めることにもなっている。そこでは異なり合う複数の現実が同時におぼろげになっていき、次から次へと継続的にぶつかり合っているのだ。もしも彼を取り巻く環境が少しでも違っていたとしたら、本作は全く異なるアルバムになっていたかもしれない。

Flatland

インタビューをしたあの日の午前、クロワッサンは口の中にバターの効いた後味を残す中、私はきめ細やかな作品につながっているHertzの制作について尋ねてみたいと思っていた。過去に彼はトラックが完成に至るまで数々のバージョンを試すと語っていた。時には80ものバージョンにもなることもあるそうで、各バージョンを聞くたびに付随的なディテールが「ケロイド状の痕跡」を残していくそうだ。今回のアルバムもこのケースにあたるのだろうか？

「トラックに思い切った変化をつける前は普段新しいバージョンをセーブしています」と彼は説明する。「5、6バージョンごとに大きな変化をつけることが多いですね。ドラムの半分を置き換えたり、再構築したり、という感じです。20、30バージョンにさしかかる頃には時々、大部分の素材を置き換えることもあって、一番初めにあった要素はほとんど聞くことが無くなることもありますよ」

これは後になって決断を後悔してトラックのタイムラインを遡り作り直したくなった場合、安全策ともなる。「僕は90%の時間を前進に使っていて、10%を後進に使っていると思います。でもセーフティ・ネットは必ず設定しておきたいですね。制作過程の最終段階にさしかかると、以前トラック上にあったけど今は使ってない素材があったことを思い出して、その素材を探しに前のバージョンに戻ならければいけないこともありますよ」こうすることで、トラックの成長過程や彼が下した決断、そしてそれによって起こる変化が克明に記されたフリップブックとでも言えるものをHertzは手に入れることになる。「僕のiTunesにはこうした未完成の音源が入っていて、トラックがある場所からどうやって別の形に収まっていったのか聞くことが出来てすごく面白いですよ。いつもこんな感じで作業が進む訳ではないんですけど、より経験を重ねていけば、寄り道をすることなく最終目標に向かってより直線的に進んでいくことが出来るようになると思います。まだまだ自分は学んでいるという気がしていますけどね」

思っていた通り、Hertzの作業率はそれほど速くはなかった。「不満にならなくなっています。自分への期待を加減するようになったんだと思います。『今レコーディングしているこのセッションが最終バージョンになりますように』というようなことは考えなくなりましたね」と彼は笑う。「一番の障害は物事の捉え方を見失うことです。自分がレコーディングしている時、サウンドがどのように鳴っているかを客観的に判断するのはかなり難しいですよ」この解決作の一部として、彼は友人でもあり助言者でもあるCall SuperことJoe Seatonの助けを受けている。Seatonは実質Hertzがリリースしてきたトラック全てにおいて顧問的役割を担っており、Hertzも彼に対し頻繁に同様のお返しをしている。しかし解決策の大部分は時間をかけることのようだ。「1回の休暇が全部無くなりますよ。何度も聞き返したり比較したりするんです。何がよくて何がよくないのかを適切に捉える感覚を得るためです」

まだ1つ気になっていた質問が残っていた。アルバムのタイトルに関しての質問だ。「『Flatland』は1884年の短編小説なんです。ヴィクトリア時代の社会風刺となっていて登場人物はみんな多角形、三角形、線とか何かしらの形をしている二次元の世界が舞台なんですが、長きに渡って語られているこの小説の特徴は空間の次元を取り扱っている点です。もしも二次元の世界の生き物であれば、その視野に広がっているのは僕らのような面ではなく線となります。なので、ある三角形が別の三角形を見ると単なる1本の線にしか見えないですよね。たぶん陰影も違うと思います。でもこの本の中では三次元の物体が主人公を訪ねてきて、彼を二次元の世界から連れ出してFlatland（平面の国）全体を上空から見せてくれるんですよ。この小説は1つのアングルとか複数のアングルから1つのストーリーを見ていきながら物語の世界を築いていこうとするのではなく、1つのストーリーを小説と対応する実際の現実世界から見ることが出来るというアイデアに結びついていて、僕はその結びつき方が好きなんです。全体像を一度に見ることが出来るんですよ」

Hertzがこの説明している間、シンプルな幾何学の図形が彼のホワイト盤にスタンプされていたことを思い出すのは当然だった。『Flatland』のカバーでは三次元的にカーブを描いている流線形によって置き換えられている。その輪郭には目を引き付けられるがこれ以上無いほどきらびやかで非現実的でもある。俯瞰的な視点が与えられるという点でアルバムの概念を代弁するこのデザインは素晴らしいアイデアだが、そもそも究極的に我々は自らの知覚認識に縛られ、1つの角度から、もしくは、いくつかの似たような角度から物事を見てしまう定めにあり全体像を手にすることは無いのではないだろうか。とは言え、より優れた明晰さを求めて励むことが出来ないわけではないし、それは難解かつ等しく魅惑的な『Flatland』が深く関わっている行程にもなっている。「アルバムを作るために制作を始めて、作品を仕上げて、そしてこれが完成品です、というような感じではないですね」とHertzが語る。「この仕上がりにはとても満足していますけど、自分から取り除かないといけない要素がある気もしています。なので次回はもっとフォーカスした結果になるでしょうね」