WeTransferがBreaking Throughをサポート。MidgarからリリースされるWata IgarashiのEP「Ciphers」から、"Mantle"と"Displacement"がダウンロード可能だ。

去る9月、とある土曜の深夜、Wata Igarashiはプロデューサーとして、ひとつの夢を叶えることになった。その日、Labyrinthに集っていた観客の中に彼はいた。日本で開催される著名なテクノフェスティバルにおいて、彼は毎年、出演アーティストの音楽を吸収するだけでなく、エントランス業務も担当している。Nuelによるクロージングセットの途中で、彼は聞き覚えのあるサウンドがFunktion-Oneのスピーカーから流れてくるのを耳にした。それから数か月後にSkypeで彼と話をした際、その時のことを次のように語ってくれた。「最初に入ってきたハイハットで、自分のトラックだと分かった」。そのトラックはRuhig “Pulse Width”のIgarashiによるリミックスだった。今年の初夏にベルリンのレーベルMidgarからリリースされたヒプノティックで灼け付くようなテクノトラックだ。

しかし、Nuelのそのレコードは針飛びを起こし始めた。1回、そしてもう1回、さらにもう1回と。その夜、フロアにいた私は、まさにその瞬間のことを覚えていた。非の打ちどころの無い完ぺきな夜において、その針飛びは単なる雑音に過ぎなかったが、Igarashiにとっては世界が無情に感じられたことだろう。しかし、その話を私に伝えてくれた時、彼は素晴らしいユーモアセンスで笑い話にしてくれた。それよりも彼が心配していたのは、レコードが針飛びした話が記事になると、Nuelが困るかもしれないということだった。だが、その翌日、長きに渡ってLabyrinthのレジデントを務めるPeter Van Hoesenが、『Stealth』（Van Hoesenが新たにキュレートしたミックスコンピレーション）に収録されているIgarashiのトラックをプレイしたことは、彼にとって救いになったのだろう。今回は何の問題もなくトラックがプレイされ、Igarashiは泣きそうなほどに感動したという。

Igarashiがテクノシーンに登場したのはここ数年だが、脚光を浴びるようになったのはさらに最近のことだ。しかし、これまでに至るには、彼のささやかなディスコグラフィーや、有り余る熱意、そして、若々しい外見から連想されるよりも、長く紆余曲折した道のりがあった。私とIgarashiは今年の初めに東京で出会っていた。私が執筆したRolandの特集記事の取材にあたって、彼は通訳として雇われていたのだ。取材当日の朝、彼のアパートに到着すると、所有するTR-909を持って外で待っていた。彼はまるでテクノ総本山を巡礼するかのように同機を携えて取材に同行した。浜松に向かう車内で、Igarashiはテクノのリリースや、ベルリンのクラブ、そして、エレクトロニックミュージック制作の複雑さについて熱心に語っただけでなく、サイケデリックロック、Jimi Hendrix、実験音楽、ギターについても熱弁を振るってくれた。その時私は、Igarashiが最初に深く音楽と関係を持ったのはテクノではなく、それと同時に彼はひとつのスタイルだけに惚れ込んでいるのではないことを私は感じ取った。

それから何か月も過ぎてSkype越しに話をするまでに、2015年は明らかにIgarashiのキャリアにおいて飛躍の年になっていた。「数年前まで、DJと曲作りを楽しんでいるどこにでもいる人だった」と彼は語るが、いまや彼がインスピレーションを受けているアーティストと同等にIgarashiの音楽が多くの人に語られていることに、彼自身が本当に驚いているようだった。多大な影響力をもつテクノブログmnml ssgsを以前に手掛け、東京で彼と一緒にステージに立つこともよくある友人Chris SSGは次のように語る。「Nobuに続いて、Wataは日本トップクラスのテクノアーティストとして自身を確立した。彼には東京のテクノシーンを活性化させる重要な役割を担ってほしいと本当に思っている」

奇妙だと思うが、Igarashiの物語は野球から始まる。東京で育った多くの少年たちと同様に彼が情熱を注いだのは野球で、都内の精鋭を集めたユースチームでプレイしていた。彼は次のように語る。「朝早く起きて練習に行って、その後に学校に行っていた。学校が終わったらまた練習に行って。それが僕の生活だったんだよね」。11歳の頃、富士通に勤務する父親から家族でイギリスに引っ越すと告げられ、彼は打ちひしがれた。「野球選手になりたかったんだけど、イギリスには野球が無いでしょ」。Igarashiはイギリスのアメリカンスクールに入学すると、その学校には野球チームがあった。しかし、彼の目に留まったのは、仲間たちが夢中になっていたギターとスケートボードだった。そして80年代後半、テレビやラジオから流れていたヘビーメタルに彼はのめり込むようになった。

15歳の時にはマドリッドへと引っ越した。数年間を英語の習得に費やし、再び夢中になれるものを見つけようとしていたIgarashiは、もう一度、同じことを繰り返さなければならなくなることを信じられずにいた。当時の彼は知る由も無かったが、これが音楽人生のターニングポイントになった。彼は次のように語る。「それより前までは趣味で演奏していたけど、スペインに引っ越してからはちゃんとしたバンドで演奏するようになったんだ」。F.O.D.（Fuckers Of Defeat）と名付けられたバンドのサウンドはハードコア・スケートパンクだった。当時についてIgarashiは、人生で初めて音楽に深くハマった時期だとしているが、マドリッドのパンクシーンへと飛び込むのに彼は若すぎたという。「僕らは単なるスケーターキッズのグループだった」と彼はF.O.D.について語る。しかし、スペインを離れた彼が別の道に進む基盤となったのは、その時の体験だった。

高校卒業後、自身のルーツを再発見するため、Igarashiは日本に戻り、慶応義塾大学へ進むことになる。政治学科に在籍した彼だったが、早くから政治学よりも別なことに興味があることに気づいていた。それは同大学のジャズサークルであった。ほんの少しだったのかもしれないが、サークルの仲間が演奏する音楽はスペイン時代にIgarashiが好んでいたBlack Flagの即興的な瞬間と一致していた。Pat Martinoといったギタリストの他、John ColtraneやMiles Davisの突出した音楽や、Keith JarrettのようなECM所属ミュージシャン、そして、フリージャズの世界に、彼は大いに興味をかき立てられるようになった。彼は次のように語る。「ジャズを学んでいる時にコードや音楽理論についての知識の多くを身に付けた」。大学卒業後、IgarashiはギターメーカーFernandesの国際部で仕事を始めたが、本当はギターを売るのではなく、ギターをプレイしたかったことを彼は自覚していた。それから約1年半後、音楽演奏に専念するために同社を離れ、生計を立てるために英語を教えながら、アヴァンギャルドに傾倒したジャズロックバンドIndigo Cage Airlinesにて2枚のアルバムをレコーディングした。

Wata Igarashi

Igarashiは2000年前半まで音楽でキャリアを築くことができずにいた。テレビ業界で働く当時のパートナーの提案により、彼はCM音楽の制作に足を踏み入れた。しかし、そこで最初に学んだのは、DAW環境での制作方法だった。彼は次のように語る。「ものすごく高価なギターを手に入れる代わりに、Macを手に入れた。それがターニングポイントだった」。そして、バイリンガルの制作アシスタントを探していたテレビCMの音楽制作会社で彼は仕事をし始める。会社のスタジオ内にあったアナログシンセをくまなく知ることも彼の仕事の一部だった。当時の多くの若者たちと同様、彼もManiac Loveなど東京のクラブやサイケトランスのパーティーを経験していたが、彼が最初にエレクトロニックミュージックで心を掴まれたのは、これらの音楽がどのように制作されているのかということ、そして、自分ひとりでそれができてしまうということだった。Indigo Cage Airlines時代について彼は次のように語る。「みんなのスケジュールをまとめたりするのは本当に大変だったから、自分ひとりでできることを探していた。そんな中、僕の意識はジャズから離れて発展していったんだ」

その発展はゆっくりと、そして、有機的に起こった。制作がきっかけでDJをするようになり始め、Droneと名付けられたパーティー（現在、東京のアンビエントイベントSound GardenのJelomuと共に開催）でレジデントを務めるようになった。そしてDroneでは、Perc、Samuel Kerridge、Ioriらと共演した。同時に彼は東京のベテランGo Hiyamaのリミックスをフィーチャーした4曲入りのファーストEPをオーストラリアのGynoid Audioからリリースした。そしてDroneに引き続き、Igarashiは故Dave Twomeyが運営した極めてディープなテクノパーティーMarianaに出演の依頼を受けた。Igarashiは次のように回想する。「出てほしいって頼まれたことには、すごく驚いた。それからたくさんの人と出会うようになったんだ」。その中にはIgarashiが2013年から毎年プレイしているフェスティバルRuralのスタッフも含まれていた。そして、Abdulla Rashimと彼を繋げたのも、ふたりが共演したMarianaだった。Rashimが来日した時はIgarashiの自宅に宿泊し、そこでIgarashiは彼に自身の作品をいくつかを聞かせたが、その中の1曲にRashimはとりわけ感銘を受けた。そして、Marianaから派生した新レーベルから発表されるファーストEP（そして、唯一のリリースとなったEP）に収録するトラックをTwomeyから依頼された際、Rashimは代わりにIgarashiのトラックを進言したのだった。Igarashiは次のように語る。「Rashimはその時トラックを持っていなかったのか、忙しかったんだろうけど、Daveは僕のトラックをすごく気に入ってくれたんだ」。2013年にリリースされた同EPには、国内外で高い人気を誇るアンダーグラウンドなテクノアーティストMike Parkerがフィーチャーされた。Igarashiは同EPに自身のトラックが収録されたことが転機になったと語る。「あのレコードを通じて僕の音楽を聞いてくれた人がたくさんいる」

2013年と2014年のIgarashiのスケジュールはさながら東京テクノシーンの“顔”とも呼べるほどに充実したものになっていった。Air、Unit、閉店したElevenとLouverといったクラブで彼は定期的にプレイし、Skirt、Peter Van Hoesenといった国際的なアーティストたちとも共演した。しかしながら、Igarashiが海外に進出し始めたのは、2015年になってからのことだ。ベルリンのTresorでのギグをはじめ、彼はヨーロッパでいくつかのライブパフォーマンスを行った。滞在中にBerghainが主催したThe Bunker New Yorkのショーケースにて、彼はVan Hoesenと再会した。Van HoesenのスタジオにIgarashiは未発表のデモトラックを収めたCDを持っていった。「スタジオに行くなら、彼に何曲かトラックを渡して、どうなるか見てみようって思っていたんだ」

それから数か月後、Van Hoesenは彼に連絡を取り、そのデモに入っていた数曲について尋ね、さらに別の音源をリクエストした。Van Hoesenはメールにて次のように語ってくれた。「彼の音楽は確かな知識に基づいているし、適度にサイケデリックな感覚がある。そのWataの作品を聴いていると、彼がテクノミュージックの制作について深く理解していて、明らかに独自のサウンドに発展させていることが分かる」。最終的に、Van Hoesenは彼の2曲のトラックにサインし、『Stealth』に収録した。『Stealth』のオープニングを飾ったアンビエントトラック”Top Secret”と”Night”について、Van Hoesenは「ミックスしている時の、これから始まるぞっていう瞬間」だと称している。

The Bunker New York、DJ NobuのレーベルBitta、そして、Semanticaからのリリースを予定する作品群によって、2016年はIgarashiが国際的なアーティストとして飛躍する年になることは間違いない。しかし、世界のテクノシーンとの関わり方と同様に、国内のテクノシーンの動向に期待を感じているようだ。彼は次のように語る。「リリースが無いからとか、ちゃんとしたポッドキャストが無かったからなのか、そういったことのせいなのかもしれない。でも本当に素晴らしいDJがたくさんいるんだ。北海道にもシーンがあるし、大阪、仙台、沖縄にもシーンがある。東京だけじゃないよ。絶対にね」。彼が気に入っているのは、日本ではテクノがパーティーミュージックに限られないというところだ。「Ruralのメンバー、FRUE、Chris SSG、Ena、DJ Nobu、Future Terror。そうした素晴らしいパーティーやアーティストたちみんなが、すごくディープな音楽をプレイしている。それが日本のムーブメントを牽引しているんだと思う」

類まれなテクノDJとして、完ぺきなサウンドデザイナー／プロデューサーとして、そして、流暢な英語を話す者として、日本のテクノシーンで現在起こっていることを知るには、Igarashiが格好のスポークスマンだと思えるかもしれないが、彼のように謙虚な男がシーンの顔になろうとすることなど、私には到底想像できない。しかし、彼がライブセットを肉付けし、今後もダンスフロア向けの作品を創出し続ければ、これまで以上に評価を受け、世界中の良質なサウンドシステムを鳴らすために多くのツアーをすることになるだろう。無論、彼は喜んでその道を歩むはずだ。Igarashiにとって“東京”という帰る場所がある限りは。「英語を話せたりするし、ヨーロッパにも住めると思う。でも今はこの場所にいたいんだ。なぜなら東京のこのシーンにいて、みんなと一緒に過ごすことで多くのことを学んできた。だから、現時点では東京に留まるのが、僕にとってはすごくいい選択だと思っている」