Native Instruments（以下NI）のベルリン本社は、市内を流れるシュプレー川に向かってドミノのように立ち並ぶ古いビル群の一画にオフィスを構えている。NIは設立以来この地区の奥まった場所に建つビルに本社を構えており、オフィスとミーティング・ルームが並ぶL字型の廊下には会社設立当初からの古い広告宣材がずらりと展示されている。もともと90年代後半にしデジタル・モジュラー・サウンドデザインを提供する数人の精鋭たちによって立ち上げられたNIは、いまや多くのプログラマーやデザイナー、プロダクト・オーナー、カスタマーサービス、プロトタイプ解析者などの従業員を抱える企業に成長した。業務の拡大により、彼らはたびたびオフィス増床の必要に迫られたが、本社が入居するビルの賃貸約定では同一のテナント内での増床の割合に上限があったため、NIの各部署は本社が入居するビルの周辺に散らばるように点在することになった。不気味なほど明るい白さを放ちながら、静寂に包まれたオフィス棟の群れはどれも同じように見える非常階段で繋がれ、まるで迷路のようにさえ感じられる。各オフィスへ出入りするには専用のカードキーが必要だが、それ以上に一定以上の方向感覚も必要となる。

設立以来20年で、NIはエレクトロニック・ミュージック・シーンを支える最大の企業のひとつにまで成長した。もちろん、エレクトロニック・ミュージックの発展に貢献した企業はNIだけとは限らないが、そのなかでもやはりNIの立ち位置はユニークである。たとえば、エレクトロニック・ミュージックの発展に大きく寄与した企業では他にもRolandやPioneerといった企業の名が挙げられるが、これらの企業のもともとのルーツはオルガンやハイファイオーディオ機器であり、あくまでその一部署がシンセサイザーをはじめとする電子楽器やDJ機器を開発してきたに過ぎない。要するに、大企業の数ある事業のうちのひとつに過ぎないのだ。もしくは、PioneerのケースのようにDJ機器部門が分社化・売却されることもある。NIは幅広いミュージシャンやプロデューサーに訴求すべき製品を開発するというスタンスではRolandやPioneer（現Pioneer DJ）と変わりないが、彼らが開発する製品もしくは展開する事業は主にエレクトロニック・ミュージックのみをターゲットにしているという事が最大の特徴だろう。Rolandのような企業は長い年月をかけてダンスミュージックの中心でようやくその確固たる存在感を確立したが、NIは設立から非常に早い段階でその立ち位置を確立したという点も大きく違う。とりわけ、本拠地であるベルリンのシーンにおける定着は特に早かった。新たな音楽を作るための真に新しいツールを作ろうと努めてきたNIは、常にエレクトロニック・ミュージックに寄り添ってきた企業だと言っていいだろう。

長きにわたりNIの広報部長を務めているTobias Thon氏はこう切り出す。「我が社は、ベルリンという街のサブカルチャーに根ざして発展を遂げてきた企業です。テクノ・シーンはベルリンから発展していった文化ですし、このシーンは我が社にとっても最初の顧客層となりました。ベルリンのテクノ・シーンからは、まったく新しいタイプの音楽制作のためのツールを求める需要が強く存在していました」

彼らが世に出した全く新たな楽器は、もはやスタジオでの広大なラックスペースを必要とするものではなかった。NIはその設立当初からソフトウェア・カンパニーとして出発しており、PCを最もフレキシブルでパワフルな音楽制作ツールと定義し、既存のハードウェアでの作業をPC上に置き換えて行うだけでなく、それ以上の可能性を広げようとしてきた。かくして、NIは過去20年の音楽テクノロジーにおいて変化と過去への断絶をもたらす原動力となった。彼らが送り出した製品は我々のDJパフォーマンスのあり方を変え、スタジオでの制作プロセスを変化させてきた。NIはPCこそが音楽制作プロセスを大きく手助け、進化させていく存在だという強い信念を持っている。

過去数年の音楽テクノロジーのあり方に注目しているジャーナリストの1人として、私は音楽制作におけるPCの役割について人々が一定の意見を持っていると考えている。とりわけ、エレクトロニック・ミュージックに関する話題では現在「アナログ」そして「ハードウェア」といった単語が頻繁に飛び交っている。私がNIの人々に直接会って訊きたかったのは、まさにこの論点である。エレクトロニック・ミュージックのシーン全体がユーロラック・モジュラーをはじめとしたハードウェア回帰に大きく傾きつつある現在にあって、PCこそがプロデューサーやDJにとって最もエキサイティングな未知の地平を用意できるという信念を依然として保つには、いったいいかなる論拠が存在するのだろうか？

NIはStephan Schmitt氏によって設立された企業だ。ハードウェア・エンジニアを本業とする傍ら、アヴァンギャルドな音楽に傾倒していたSchmitt氏は、同僚プログラマーであったVolker Hinz氏と共にGeneratorというソフトウェアを開発した。Generatorはグラフィカルなインターフェイスを持ったモジュラー・シンセシス・ソフトウェアであり、後のReaktorへと繋がる礎を作った。そのReaktorは、NIが手掛けるすべての製品の基礎を作り上げたと言っても過言ではない。コンシューマー版のReaktorは現在第6世代にまで進化しており、そこに含まれるインストゥルメントやエフェクト類はすべてNIの自社内で試作研究が重ねられたものが採用されている。Schmitt氏が1996年にフランクフルトで開催された見本市MusikmesseにGeneratorを出品した当時、すでに業界ではソフトウェア・ベースでのデジタル・シグナル・プロセシング（DSP）が具現化しつつあったが、その実際の運用においてはPC内に特別なカードをインストールする必要があり、依然としてアカデミックな学術研究の場に携わる者しか触れる事ができなかった。そんな中登場したGeneratorは、一般的な家庭用PCにおいても自由にDSP技術を取り扱うことを可能にした点できわめて画期的だったと言えよう。コンシューマーが、それぞれのPCシステム上でDSPを「ネイティブ（自生的）なインストゥルメント（楽器）」として扱えること — 実は、これこそがNative Instrumentsという社名の由来である。彼らの出現は、1996年当時の業界において大きなニュースのひとつだった。

約10年前にSound On Soundに掲載されたNIの歴史を紐解く記事では、この1996年のMusikmesseにおけるGeneratorの登場は「旋風を巻き起こした」と書かれており、これをきっかけに多くの才能あるエンジニアたちがNIに対して注目し興味を持ちはじめたのだという。とはいえ、当時のSchmitt氏とHinz氏には従業員を雇う財務的な余裕はまったくなかったのだが。ともあれ、数年後にGerhard Behles氏とRobert Henke氏と共にAbletonを設立する事になるBernd Roggendorf氏の提案により、NIはDaniel Haver氏を経営陣に招き入れることを決定し、生粋のエンジニア集団であったNIはいよいよ現実的なビジネス開拓へと乗り出した。ちなみに、Haver氏は現在にいたるまでNIのCEO（最高経営責任者）として同社の経営指揮にあたっている。

このインタビューのために私がNIにコンタクトし、この会社が歩んできた歴史や哲学に精通した人物は誰かいないだろうかと尋ねると、NIは適任の人物として同社のCTO（最高技術責任者）であるMate Galic氏を推薦してきた。かくして私たちは、NIオフィス内で普段はアーティストたちを接待するために使われている明るい日差しが差し込む部屋で面会することとなった。この室内には、NIが展開する製品やDJ関連機器が2面の壁に沿ってずらりと並べられていた。Galic氏がその部屋に入ってきた瞬間、私はなぜNIが彼を企業を代表する顔としているのか、その理由を即座に理解した。ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア人家庭に生まれ、5歳の時に家族でケルンへ移住したという彼は、まさに好奇心のかたまりのような人物である。その知識はNIに関連したものはもとより、エレクトロニック・ミュージック全般におよぶ見事なものだ（彼は最近のResident Advisorにおける疑似百科全書的な編集傾向まで把握しており、私は自分よりも彼のほうがこのインタビューにおける準備がより良くできているのではないかと内心不安になったほどだ）。彼は技術面での最高責任者としてNIの哲学を体現しているばかりでなく、NIが設立以来保ち続けている好奇心とクリエイティブさに溢れた企業イメージさえも体現しているのだ。仮に彼がNIで勤務していなかったとしても、生来の音楽テクノロジー・マニアである彼はすべてのNI製品を購入していることだろう。

NIに勤務する他のスタッフと同様、Galic氏も当然ながらエレクトロニック・ミュージックにバックボーンを持つ人物だ。これまで彼は、DJ、レーベルオーナー、音楽ジャーナリスト、ドイツ版MTVともいえるVIVAでのTV司会者など、エレクトロニック・ミュージックに対してあらゆる立場から関わってきた。彼は先述したあらゆる職をすべて20代前半という若さで体験してきたが、やがて燃え尽きたような気分に支配され、かつて自分自身が熱狂したはずの音楽に失望さえ感じるようになっていた時期があるという。彼は当時シーンに溢れていた、Jeff Millsをひたすら劣化させて焼き直したようなハード・ミニマルを引き合いに出しながら「ああいうテクノがはびこっている状況に対して、心底うんざりした気分になり始めていたんです」と語る。そんな彼の耳を捉えたのは、サウンド面はもとよりその制作方法においてまでもあらゆる境界を取り去ろうとしていた実験的なエレクトロニック・ミュージックのシーンであった。

Mate Galic

私にとっては、Galic氏がそうした変遷を辿ったことはごく自然なことに思えた。なぜなら、彼はいったん何かに魅了されると、それに向かって一直線に突っ走る性質であるように見えたからだ。彼はそのままクラブ・ミュージックの世界で生きて行くこともできたはずだが、その代わりに彼は2年間も自宅に籠りきってプログラミング言語を独学で学んだのだった。「おかげで、僕の中にあるアーティスティックな感性はすっかり消えてしまいましたけどね」と言って、彼は屈託のない笑顔を見せる。ともあれ、その2年間は無駄ではなかった。1998年、たまたま入手したフリー版ReaktorがきっかけとなってNIに興味を持ったGalic氏は、ケルンからベルリンへと移り、共同出資者としてNIに加わることとなったのだ。当初彼に課せられた職務は、ソフトウェア開発に携わるエンジニアから彼らのソフトウェアを使って音楽制作を行う冒険的なミュージシャンまで、あらゆる人材を集めることであった。

今回の取材に際してNIに勤務するさまざまな人々と話す機会を得たが、誰もが共通して述べているのは、Reaktorをきっかけにしてこの企業に興味を持ったという事実だ。「Reaktorに出会った当初、このソフトウェアはある種神秘的とさえ思えたものです」と語るのは、NIでユーザー・インターフェイス・デザインを統括するGösta Wellmer氏だ。「このクレージーなサウンドマシンは多くのことが実現可能であった反面、とても繊細な部分がありました。初期のバージョンはお世辞にもコントロールしやすいものではありませんでしたね」と彼は続ける。ラピッド・プロトタイピング・チームを率い、NI製品の先行開発を手掛けるMichael Hlatky氏はReaktorに出会った当初を思い出しながらこう語る。「私にとっては、NIという社名よりもReaktorのほうがはるかに大きな存在でした。高価なシンセを手に入れるための予算がなかったり、自分でシンセを作ってみたいという欲求を持っていた場合、Reaktorは絶好の選択肢だったのです」

Reaktorは当時のPCが持っていた可能性を体現したソフトウェアだといえるだろう。従来のフィジカルなハードウェアでは入力／出力が物理的に設定されており、同期や入出力はケーブルを介して行うがゆえの限界があった。いっぽう、ソフトウェア内部で仮想的に各モジュールを自由に組み合わせることができるReaktor（この点はMaxMSPなどの他のビジュアルプログラミング言語も同様だが）はユーザーの想像力次第で大きな可能性を実現することができたのだ。しかし、当時はソフトウェアのポテンシャルが実際のPCの処理能力を上回ってしまうこともしばしばで、そうした際にはソフトウェアはフリーズしてしまうこともあった（Wellmer氏に初めてReaktorを紹介した友人は「10分もいじっていればクレージーなサウンドが山ほど得られるけど、しょっちゅうクラッシュするからその都度録音しといたほうがいい」とアドバイスしたそうだ）。ともあれ、過去のサウンドやワークフローから決別し未知の世界を追い求めるプロデューサーやサウンドデザイナー／ミュージシャンたちにとって、Reaktorはまさしく未来からやってきたソフトウェアのように感じられたことは確かだ。

Gösta Wellmer

ReaktorはNIが最初に世に出したフラッグシップ製品だが、このソフトウェアが開発されたベルリンという街とReaktorの間には興味深い相関性があるようだ。ベルリンにとって、90年代後半から2000年代初頭はある意味空白のような時代だった。いまでもベルリンは他の大都市に比べて生活コストは比較的低いままだが、当時はさらに生活コストは低かった。さらに、空きテナントや住居も無数に存在していた。この頃、ドイツ中のアート的志向を持った人々はこぞってベルリンへ移りはじめ、やがて00年代後半にもなると他のヨーロッパの国々からもベルリンへの人口流入が相次いだ。長らくベルリンに住むThon氏はこう語る。「こうして草の根的に発生するクリエイティブ性が、いかにもベルリンらしいところです。彼らは自分たち自身のアートを生み出すために、様々なものを自由に組み合わせながら即興的に作業していきます。その点で、Reaktorはこうした感性を持つエレクトロニック・ミュージックのプロデューサーたちがまさに欲していたツールなんです。ワイルドかつユニークな、それでいて革新的なシンセ・サウンドを得るための完全なフレキシビリティがこのソフトウェアにはありましたから」

以来、NIはベルリンのサウンド・アーティストたちを惹き付ける製品を数多くリリースしてきた。NIが常にその周辺に存在するプロデューサー、DJ、レーベル、ナイトクラブといったシーンに根ざした製品を手掛けることは、もはや同社の伝統と言っても過言ではない。それどころか、NIはベルリンのシーンで活動する才能を積極的に雇用してきた経緯がある（NIに勤務するDSP開発者であり、自身もObjektという名義でDJやプロデュース活動を行うTJ Hertz氏はこう語る「ベルリンの音楽シーンで活動しているとよくある話なのですが、大抵誰でも少なくとも1人はNIもしくはAbletonに勤めている知り合いがいるものなんです」）。様々な人々や文化が交錯するベルリンという街の構造自体が、Reaktorの広大なモジュール的思想の背景にあるといってもいいかもしれない。「時間をかけてじっくりと取り組みさえすれば、お金をかけなくてもスタートできるという点はベルリンの街とReaktorには共通性があるかもしれません」とThon氏は語る。

初期のNIはReaktorのセールスポイントを「どんな楽器にも変身できるソフトウェア」として押し出していた。その製品の特長はたしかに魅力的なものではあったが、その反面誰もがすべてを一から自分自身の手で作り上げたいと考えているわけではなかった。ハードウェアを選んでいる人々は、自分で機能をカスタムできることよりも、すぐに音が出せる利便性と安価さを重視している場合もあるのだ。Galic氏は語る。「私たちは『すべての人々が自分自身のシンセを作りたいというニーズを持っているわけではない』という事実を痛感しました。そこで『それなら、個別のプラグイン製品があればいいんじゃないか？』という検討を開始したのです」

NIはまずSteinberg社とのパートナーシップを模索した。SteinbergはDAWソフトウェアであるCubaseを開発したことで知られる企業で、90年代中盤にVSTプラグインという概念を定着させた。NIとSteinbergは共同でSequential Circuits製のアナログ・シンセ名機であるProphet 5をソフトウェア上で完全にエミュレートしたプラグインPro-Fiveを2000年に開発した。これはReaktorをベースにして開発された製品だったが、汎用プログラミング言語であるC++に置き換えられてVSTプラグインとして使用することが可能となっていた。同年、NIはHammond B4オルガンをVSTプラグイン化した製品も発表している。Galic氏は、この製品がテクノ・シーン以外にもNIの存在を知らしめる大きな契機になったと回想する。「突然、Paul McCartneyのテクニカル・スタッフを務める人物から電話がかかってきたんです。彼は、B4プラグインの素晴らしさに感嘆していました」とGalic氏は語る。「我々はいよいよテクノ・シーン以外の分野にも周知され、ここにきてようやくPCでのサウンドメイクの可能性を正しく知らしめることができたという実感を得られました。PCができることの可能性を示し、あらゆるサウンドを生み出す可能性のあるデバイスであると正当化できたのです」

NIが変革をもたらした分野は、PC内で完結する音楽の制作方法のみにとどまらない。2000年前後はNapster全盛期であり、一般の人々のハードディスク内を多数のmp3ファイルが埋め尽くし始めた時代だ。しかし、DJたちにとってはmp3は基本的に役に立たないものと思われていた。音質面での貧弱さはともかく、ファイルの再生スピードを変化させてミックスするための技術が存在しなかったからだ。「あらゆるものがデジタル化されていく中で、DJが扱う音楽再生メディアのあり方もPCを軸にしたものになっていくことは時間の問題だと私たちは考えていました。CEOであるDaniel氏と私の見解では、それこそが未来のDJの姿だと確信していました」とGalic氏は語る。

2000年、NIはDJソフトウェアであるTraktor DJ Studioを発表した。しかし、数度のバージョンアップを経てDJという作業は決してソフトウェア内のみでは完結できないものであることにNIは気付いた。DJにとっては、フィジカルで直感的なコントロールを可能にするインターフェイスの存在と、サウンドシステムへ良質なアウトプットを送り出すためのサウンドカードが必要だったのだ。当時、オランダのN2ITという企業はRichie HawtinやJohn Acquavivaの協力を得てFinal ScratchというDJプラットフォームを開発していた。これは、タイムコードが刻まれたコントロール・ヴァイナルを使用してPC内のmp3ファイル再生を制御するというものであった。HawtinとAcquavivaによるプレゼンテーションを目にしたNIは、これこそがTraktorの課題であるコントロール・インターフェイスの問題を解決するものだと確信し、2003年にはStanton社と共同でTraktor Final Scratchを発表したのだった。ハードウェア面での開発製造はStantonが手掛け、NIはソフトウェア面の開発を担当するという分担がなされた。

TraktorはそれまでのDJのあり方を大きく変えただけでなく、NIの社内における多数の開発作業を促進した。そのひとつには、音楽配信ビジネスへの参入さえ視野に入れられていたという。高品質なDJソフトウェアの実現には、同じく高品質な音楽ファイル形式が必要不可欠だと考えたNIは、WAVやAIFF形式での音楽ファイルを販売するオンラインストアの立ち上げを計画していた。しかし、この未開拓のビジネスをNIが自社でまかなうにはリスクが大きかった。「我々は音楽配信ビジネスを取り仕切ることのできる人材探しに着手していました。そんな折、ちょうど立ち上げ間もないBeatportの人々と出会ったのです」とGalic氏は語る。当時はまだコロラドで始まってから日も浅いBeatportの運営にNIは出資を行い、彼らのヨーロッパ進出を手助けするとともに、第3世代のTraktor導入へ向けた地盤固めを行ったのだ（NIは2013年初頭までBeatportの株主を務めた）。さらに重要な事実は、Traktorの開発がきっかけとなることでNIはDJのためのハードウェアの製造を自社で開発する道筋が得られたということだ。Galic氏いわく、NIはStantonが手掛けるサウンドカードのクオリティやデザインに対しまったく満足できなかったのだと打ち明ける。2006年、NIとStantonの間にあった提携契約が終了するとともに、いよいよNIは自社でのDJ向けハードウェア製造へと乗り出したのだ。その結果として最初に生まれたのが、2010年にNIから発表されたミキサー／コントローラー統合機Kontrol S4である。これは、ジョグホイール型のコントロール部分を備えることでPC内のファイルへのアクセスと各種機能の操作を実現する製品であった。Traktorはmp3ファイルを従来通りの方法で自在に扱いたいというDJたちの需要から生まれた製品であったのに対し、2010年代初頭に登場したKontrol S4は従来とは全く異なるミックス方法のあり方を提示するものとなった。

ハードウェアを製品ラインナップに加えることは、プロデューサーをターゲットとしたNIの販売戦略における大きな部分を占めることとなった。NIは2000年代中盤からKoreというソフトウェア／ハードウェア統合型のパッケージ開発に着手した。そのソフトウェア本体には数多くのサウンドとプロセシング機能が備えられるいっぽう、サウンドカードを内蔵した長方形のボックスにコントロール・ノブを備えたハードウェアでは、小型ディスプレイを通してソフトウェア内のあらゆるコントロールが行えるように設計されていた。今回NIのスタッフたちに取材をする中で、2011年に製造中止されたKoreの存在はあまり話題に出ることはなかったが、私がCreate Digital Music（絶大な影響力を誇るテック系音楽ブログ）の編集長であるPeter Kirn氏と共にNIを巡って会話をした際には、Koreの話題が頻繁に上ることとなった。数ヶ月前の会話では、Kirn氏はこう語っている。「KoreはNIが現在展開している製品ラインナップの先駆者的な存在だと思いますよ。おそらく、NIはKoreという製品に対し完全に自信を持ちきれていなかったと思うのですが、これによってハードウェアの開発販売の難しさを知ることができたのだとも言えます」

ソフトウェアの複雑さに対して、対照的にハードウェアはシンプルに整理された設計となっていたため、結果的にできることが限られてしまったのだ。Kirn氏いわく、Koreはユーザーたちから人気を勝ち取ることはできなかったが、NIはソフトウェアとハードウェアの統合のあり方について貴重な教訓を得たはずだと言う。その失敗から得られた教訓は、Maschineの登場によってついに報われることとなる。ビートメイキングに特化したハードウェア／ソフトウェア統合パッケージとして2009年に登場したMaschineは、ずらりと並んだタッチパッドとLCDスクリーンを備えたハードウェア（そのインターフェイスは明らかにAkaiのMPCシリーズにヒントを得たもの）を持ち、Koreに比べて遥かにインタラクティブな操作性を実現した。いっぽう、スタンドアローン型のプログラムとしてもDAW内でのプラグインとしても機能するように設計されたソフトウェアには非常に多彩な機能が盛り込まれた。発売直後から大きな反響を得たMaschineは、現在までにオリジナル版のMaschine、大型化したMaschine Studio、小型化したMaschine Mikro、そしてiOSアプリとなったヴァージョンまで4つのバリエーションが生まれ、TraktorとKomplete（NIのソフトウェア・インストゥルメント／エフェクト・シリーズ）と並んで現在のNIの製品ラインナップにおいて主軸を形成するにまで成長を遂げている。

専用のハードウェアを用意することで、ソフトウェアがPC本体に対して生じる負荷を軽減することができる。PCはそもそも音楽制作専用に作られているわけではない。したがって、音楽制作時に必要な直感性や創造力をロスなく活かすためには、それに適したハードウェアの存在が大きな助けとなるというわけだ。「一日中マウスを握りしめながら自動化カーブなどを描いていると、視覚的に音楽をデザインしているような感覚に陥ってしまうと思うのです。それでは、音楽本来の演奏する楽しみからは離れていってしまうのです」とGalic氏は語る。プロトタイピング部門の統括を行うHlatky氏の意見はよりはっきりしている。「PC自体のインターフェイスは、いまだにタイプライターの延長に過ぎないんです。いっぽう、昔のMoog製のアナログ・シンセなどを触ってみればわかりますが、こうしたシンセでは各機能ごとにそれぞれノブが割り当てられていますよね。何かアイディアが浮かんだら、それを直感的に活かしながらサウンドに反映させることができるんです。すべてがPC内に集約されてしまった現代のスタジオでは、そうした作業環境は失われて久しいものとなってしまいました。いま私たちがやろうとしていることは、そうした直感的な操作が可能なコントロール・サーフェスを現代へ呼び起こすことでもあるのです」

現在では、NIが展開する各製品カテゴリーごとに専用設計されたコントロール・ハードウェアが用意されている。たとえば、Kompleteには繊細な入力タッチとインストゥルメント群の視覚的コントロールを可能にするキーボード・コントローラー・シリーズであるKomplete Kontrolが用意されているし、Traktorにはスタンドアローンとしても機能し、同時により拡張したセットアップにも対応したDJコントローラーが用意されている。

だからといって、こうしたハードウェア製品の拡充はNIがソフトウェア面での進歩を怠っていることを意味するものではない。NIがエレクトロニック・ミュージック界にもたらした影響について語る際、避けて通れないのが2007年に発表されたソフト・シンセ、Massiveの存在である。多様なモジュレーションの選択肢を持ち、ベースラインを奏でることもできれば、パッドサウンドやリードも手掛けることのできるオールマイティなソフト・シンセであるMassiveのサウンドは後期ダブステップにおいても頻繁に多用された。また、Massiveはハードウェアでは不可能なことさえもNIの手にかかればソフトウェア上で実現できるという技術力の高さを改めて示したともいえる。この独創性こそ、今なおNIをイノベイティブな企業として広く認識させている根拠だろう。「アナログ機材から学べることはたくさんあります。そこには、サウンドに求められる本質的な豊かさがありますから」と語るのは、Maschineのソフトウェア開発においてリバーブやコンプレッサーの設計からE-mu SP-1200（訳注：ロービット・ドラムサンプラーの名機）のエミュレーションまで多岐にわたる活躍を見せたDSP開発者、Steinunn Arnadottir氏の弁だ。さらに彼はこう続ける。「しかし、我々はその一方でビンテージなサウンドのみにこだわらないクリエイティブなエフェクトを数多く開発してきました。こういった斬新なプロダクトこそ、ユーザーの方々が我々に期待しているものだと思いますから」

Steinunn Arnadottir

そうしたNIにおける先鋭的な開発の方向性は、ここ数年において特に顕著に現れつつある。昨年3月、NIはStemsと呼ばれる新たなオープンソース・オーディオ・フォーマットを開発した。ステレオ・ミックスによって1曲が構成されているという点ではWAVやmp3といった従来のフォーマットと違いはないが、Stemsの機能は既存のオーディオ・ファイル形式とはまったく異なる機能を果たす。専用のソフトウェアやオーディオ・プレーヤーで再生することにより、DJたちは4つの独立したサブ・ミックスにアクセスできる。たとえば、ヴォーカル／シンセ／ベース／ドラムといった各パーツをマルチトラックとして自在に扱うことが可能となるというわけだ。DJという作業はこれまで2つかもしくはそれ以上のトラックにそれぞれEQを施し、そこへアカペラや楽器フレーズなどをミックスするなどのテクニックを駆使してきた。ところが、Stemsではこうした過去の作業プロセスを新たなレベルに引き上げ、ミックスという作業をトラックの構成要素の細部にまでアクセスすることを可能にする。これにより、EQ処理などでミックスしていた従来の手法では考えられなかったほど緻密なエディット作業を実現できるようになったのだ。

また、もうひとつの新たな利点として、Stemsというフォーマットは依然販売面での苦境に悩まされているプロデューサーやレーベルにとって新たな収益モデルの可能性をもたらすことになるかもしれない。これまではStemsフォーマットを扱えるプラットフォームはTraktorのみであったが、現在ではそれ以外のNI製ハードウェア／ソフトウェアでもStemsを扱うことができるようになっている。同時に、NI以外の他メーカーもこのこのフォーマットに追随する可能性も開かれている。

Stemsは、NIにとって必ずしも突然降ってわいたようなアイディアではない。Traktorには以前よりRemix Decksと呼ばれる機能が含まれており、ループを加工し再生することが可能であった。それに、NI社内ではこのStemsへと繋がるアイディアはRemix Decks登場よりずっと以前から温め続けられていたそうだ。「社内の幹部レベルでは何年も前からStemsの原型となるアイディアが議論されてきました。我々はただEQのみに頼ったミックス方法よりもさらに進んだものを求めていたのです」と語るのは、NIでモジュラー型DJコントローラーのプロダクト・オーナーを務めるMichael Koczynski氏だ。いっぽう、Galic氏によるとNIがStemsの開発に着手した当初、アルゴリズム的なMelodyne（訳注：Ceremony社が開発・販売するオーディオ編集ソフトウェア）スタイルのアプローチを想定していたようだ。しかし、パーツ化されたトラックをより簡単に扱え、なおかつNIの製品らしい直感性を持った製品とするためにはもっと別の方法があるはずだと彼らは気付いた。そのきっかけとなったのは、2014年のSXSWに開催されたRichie HawtinとDeadmau5による音楽テクノロジーをテーマとしたパネル・ディスカッションであった。「彼らはステレオ2ミックスを構成するパーツ群の総称として『ステム』（細い茎）という表現をしていたんです。折しも我々がStemsフォーマットを運用できる試作品を仕上げたタイミングでしたので、我々のアプローチは間違っていなかったのだということが彼らの発言によって確信できたのです」とGalic氏は語る。まさに機は熟したのだ。それから1年も経たずに、NIはStemsを公式に発表した。

Michael Koczynski

私がGalic氏にインタビューしたのは2015年暮れのことだったが、Stemsの発表に際してNIと彼にはある思惑があったようだ。Galic氏によるとそれは期待通りのものであったようで、そのこと自体に彼は興奮していた様子だった。その一方で、インタビューの間彼がしばしば言及していたのはこのStemsというフォーマットにはまだ乗り越えるべき壁があるということだ。とはいえ、その壁がどのようなものになるかということについてはまだ彼自身も完全には把握しきれていないようだ。NIにとってDJというカスタマー層は彼らにとって最も保守的なグループであるといえる。それはTraktorを発表した初期の頃から現在に至るまで変わっていない。そして、Stemsというフォーマットは保守的なDJたちからの拒否反応を再び引き起こす存在となりかねないだろう。単に再生ボタンを操作する者と「リアルな」DJを分ける要素とは、正確なマニュアル・ビートマッチング技術にあると信じてやまない保守的な考えを持ったDJたちにとって、Stemsフォーマットの出現はそうした次元を置き去りにすることになる。「PCを使ってよりモダンで洗練されたパフォーマンスを披露することよりも、2台のターンテーブルの再生スピードを合わせることのほうが高尚で価値のあることだと考える人々がいますが、私には理解しかねます」と、Galic氏は興奮と苛立ちが交じりあったような語気を込めて話す。「もちろん、2つの曲のビートを完全にシンクさせるには一定の技術の鍛錬が必要だとは思います。しかし、その価値観をあたかもDJカルチャーにおける標準的なものとして押し付けようとする態度には賛成できませんね」

DJプレイのデジタル化という点では、NIはメインストリームを作り出した存在だと言えるが、彼らはある意味ではその座は現在すでに奪われているものと考えている。というのも、もしあなたがデジタル・ファイルをDJセットの中で従来のマニュアル・ビートマッチングでプレイしようと考えるのならば（もしくは、ループ・プレイやオートマティック・キューイングのような機能を欲しているなら）、ファイルをUSBメモリに入れてPioneer DJ製のCDJに差し込めばすべて可能になる。NIにとって、それ自体は問題ではない。なぜなら、彼らはNIが考えるようなターゲット顧客層にはあてはまらないからだ。「企業としての私たちのゴールは、業界標準となる機材を単に作って売ることではありません。ジョグホイールでの操作性が必要であれば、USBメモリを差したCDJ2台をLANケーブルでリンクし、内蔵のA/Dコンバーターを通じて出力すればすべて事足ります。ジョグホイールを備えたCDJにしろターンテーブルにしろ、この市場にはすでに優れた製品が存在します。そこへあえて我々が参入し、より良いものを提供したとしてもあまり意味は成さないでしょう」と語るのはKoczynski氏だ。たしかに、現在のNIにおける製品ラインナップを改めて見てみると、Traktor用コントローラーにしろモジュラータイプのD2、オールインワンタイプのS5やS8にしろ、そこにはまるで意図的であるかのようにジョグホイール型インターフェイスを備えた製品はひとつとして存在しない。

NIは、クラブでプレイされる音楽において革新的なパラダイムを貪欲に求め続けるプロフェッショナルたちがまだまだ存在するはずだと考えているのだろうか？「現状としてはそう考えるに十分な材料はありませんし、同時にそうした需要が我が社の開発方針に大きく関係してくるとも思えません」と笑顔まじりで答えるのは、NIでアーティスト・リレーション面を担当するマネージャーのひとり、Susan Langan女史である。彼女はNIの製品をプロたちがどのように使っているかということに関して誰よりも注意を配りつつ、アーティストたちにNIの製品を周知し使用を奨めることが彼女の役割である。「わたしが注視しているのは、アーティストたちが我々の製品に対してどういった印象を持ち、その製品にどのような可能性を見出しているかということです。もちろん、パフォーマンスのあり方において他者とどれだけ差を付けられるかということを注意深く考えているアーティストたちもたくさん存在します」とLangan女史は語る。いっぽう、何でもいじってカスタムすることが大好きなテクノDJであるKoczynski氏は、少なくとも短期的な視点で見てNIがプロ向けの製品のみに注力しているとはいえないと考えている。「僕らのようなベッドルームに籠もりっきりのオタクは、ある意味プロ以上に要求が多いかもしれません。Aという素材にBという素材をただ単にミックスするだけでは決して満足できない人たちばかりですから」

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Susan Langan

私は、最初のインタビューでGalic氏にぶつけてみた質問の数々を改めて思い返していた。その中には、「NIはプロフェッショナルと一般消費者を区別して考えているのか？」という質問があった。彼は「いいえ」と断言した。「私たちは、カスタマーを区別するようなことはありませんし、そのカスタマーが音楽プロデューサーであるのか、ライブ・ミュージック・パフォーマーであるのか、はたまたDJであるのかといったカテゴリーに分けて区別することに関心を持ったこともありません。我々のリリースしてきた製品ラインナップをご覧頂ければ、我々はむしろそうした既存の境界線を曖昧なものにすることにこそ関心を持っていることがお分かりいただけると思います。そうした姿勢を快く思わない保守的なユーザーもいることは理解していますが、この境界の曖昧化という作業は誰かが必ずやらなければならないことです。我々がリリースする製品の中には、発売後すぐにヒットするものもあれば、そうではないものもあります。ですが、それらすべての製品はみな共通した理念のもとで開発されているのです。ひとつの製品における使い方は決してひとつだけではなく、違った視点や考え方が常に存在するのだということをユーザーの方々には伝えたいですね」