坂本龍一のニューアルバム『async』に収録された1曲に、"Walker"という優雅な曲がある。これは、落ち葉をクシャクシャと踏みしめて森のなかを歩く人の足音を基盤に作り上げられた楽曲だ。また、他の曲では、坂本の邸宅の外でピシャピシャと降る穏やかな雨音であったり、2011年の津波に大きな被害を受けた宮城県名取市の高等学校に置いてあるピアノの音色などが素材として使われている。今回のアルバムは坂本にとって、2年前に発表され各方面から称賛の嵐を受けた、『The Revenant（邦題：レヴェナント: 蘇えりし者）』のサウンドトラック盤以来の新作となる。同映画はAlejandro González Iñárritu監督によるアカデミー賞受賞作であり、大自然の過酷さや驚異を見事に表現していた。坂本はAlva NotoことCarsten Nicolaiと、Bryce Dessnerとのコラボレーションによって同作の映画音楽を手がけており、この仕事をやった経験が新作に影響を及ぼしたとも話している。そんなニューアルバムは、外界で鳴っている様々な音のピースが彼のニューヨークのスタジオに持ち込まれ、丁寧に組み合わされて完成したものであった。

坂本は現在、日常的でささいな物事にとても幸せを感じると話すが、2014年に中咽頭がんの宣告を受けた経験を持っていることを考えると、彼がそういった心境になることも納得がいく。治療を経て現在は復帰しているものの、この経験に自身の命の儚さを認識させられたと言う。今では、美味しいごはんやワインを飲むという単純なことにこの上ない幸せを感じるそうだ。現在65歳である坂本は、実験音楽を大衆化させたことを始め、長きに渡って音楽界に多大なる貢献を果たしてきた。Yellow Magic Orchestraの一員として先駆的な作品を発表し、『戦場のメリークリスマス』、『ラストエンペラー』といった映画作品のために数多の名曲を提供し、Alva Noto、Fennesz、David Sylvianなど様々な音楽家たちとコラボレーションしてきた。そんな坂本龍一に、『async』がリリースされる数日前に話を聞くことができた。

ニューアルバムは“日常的なモノ”、“彫刻”と“自然”をインスピレーションとしているそうですね？

日常的なモノの音を聴いて、楽しめるアルバムを作ることが第一の目的だったんです。このアルバムを作っていたとき、僕は純粋にモノの音を聴きたい、という衝動にかられていたんです。この場合の「モノ」とは楽器も含みます。

この作品を作る上で、家具デザイナー、そして音響彫刻家として知られるHarry Bertoiaに影響を受けたそうですね。家具と音楽にはどういった関係性を見出しますか？

僕が関心を持っているのは、家具デザイナーではなく音響彫刻家としてのBertoiaです。しかしその質問を受けて、フランス人の作曲家のErik Satieのことを思い出しました。彼は20世紀初頭に、家具や壁紙として機能する音楽を作ろうとしたんです。その発想にJohn Cageが大きく影響を受けました。だから音楽の歴史において、そういった願望を持つ人々は少なからずいるんじゃないでしょうか。

今作ではフィールド・レコーディングを多用しており、はっきりと何の音なのかわかる音も多いです。こういった手法はこれまでも行ってきたことでしたか？

周りで鳴っている面白い音はいつも録音しています。特に、旅をするときに録ることが多いです。なにしろ海外に行くと、音だけじゃなくて景色、食べ物、人々など色々なものが新鮮に感じるので。だから、そうですね、フィールド・レコーディングはよくやります。特に今回のアルバムでは活用しました。東京、ニューヨーク・シティ、アップステート・ニューヨーク、パリ、京都、そして僕の家の中、外で録った音をふんだんに使いました。

"Walker"には、気持ちの良いクシャクシャという足音が入っています。あれはご自身が歩いているときに録音したものですか？

そうですね。レコーダーを持って、森のなかを10分、15分ぐらいゆっくりと歩いて、それをメインの素材として曲を作りました。土っぽい音も入ってますけど、主に枯れ葉です。最後は地面がコンクリートになるので音が変わります。音を聞くだけで情景が頭に浮かぶんじゃないかと思います。

癌と向き合い、闘病生活を経験したことで、日々の些細な物事に対する考え方が変わったと思いますか？

まさに、そうですね。病気を経験すると、人生の見え方が大きく変わります。朝食や昼食をとることや、ワインを飲むといった当たり前のことがとても幸せに感じるんです。そして、日常的な音を聴くことにも同じ幸せを感じます。

今回のアルバムはAndrei Tarkovskyの映画にも影響を受けているそうですね。彼の作品のどういうところに惹かれますか？

今回のアルバムのためにTarkovsky作品を観たわけではないのですが、彼の映画はずっと前から大好きでした。彼はたったの7作しか遺していませんが、どれも名画で、もう何度も何度も繰り返し観てきたのですが、歳を重ねて、もしかしたら病気の影響もあるのかもしれないですけど、昔よりも彼の映画が好きなりました。癌になって、彼の映画のテーマとして頻出する生と死、そして想い出といったことをより意識するようになったのかもしれません。彼の映画にはポエトリーが詰まってるんです。自伝的な『鏡』という映画があるんですが、とても詩的で、ストーリー性がほぼ無いんですが、彼の想像力や想い出が詰まっていて素晴らしいんです。

"Life, Life"という曲では、Andrei Tarkovskyの父であるArsenyが書いた詩の朗読があります。なぜその詩を選んだのですか？また、朗読をしたDavid Sylvianと再度仕事をして、いかがでしたか？

Arseny Tarkovskyの詩は昔から好きだったのですが、この作品は人生や夢について綴った詩だったので、病気を経験して余計響くものがありました。しかしDavid Sylvianの朗読を録音したのは、実は2011年の大震災の直後だったんです。あのとき、DavidにArsenyの作品の朗読の音声を10本くらいもらって、そのうちの3本くらいをチャリティコンサートで使いました。

新作に収録されているもうひとつのヴォーカル曲、"Full Moon"には、Paul Bowlesによる小説『The Sheltering Sky （邦題：極地の空）』からの引用があります。この小説が映画化されたときの映画音楽は、あなたが担当していましたね。引用された部分はとても考えさせられる言葉でした。我々は人生を無尽蔵の井戸のように思ってしまうが、実際にはそうではない、という考え方ですね。

Paul Bowles自身があの映画に出ていたんですよ。最初と最後に。そしてあの文の朗読をしていたのも本人でした。音楽を作っていたとき、あの言葉を聞いて雷が落ちたかのように衝撃を受けたんです。だから30年間ずっと僕の頭のなかにあった言葉でした。このアルバムを作っていたとき、ようやくあの音声を使うべきときが来たのではないかと感じ、彼の音声を使用する許可をJeremy Thomasと(Bernardo) Bertolucciにもらいました。

1分もないあの短い音声をループ再生させて、何度も何度も聞いていたら、違う言語で聞いてみたいと思ったんです。だから試しにまずはロシア語と中国語で録音してみた。ロシアの映画や中国の映画が好きなんですけど、このとき特にTarkovskyの映画を意識していたからか、ロシア語で聴きたいと最初に思ったんです。それで、ニューヨークに住んでいるロシア人の友達をスタジオに呼んで、録音させてもらった。まずはロシア語、それから中国語を録っていきました。日本のファンには、なぜ日本語がないのか聞かれましたね。

その質問にはどう答えましたか？

なぜかは、わかりません。

『The Revenant』の映画音楽の制作と、『async』の制作は、共通する部分はありましたか？『The Revenant』の映画においても音楽においても、自然はとても重要な存在でしたが、『async』でも自然や環境録音の存在は大きいと感じました。

そうですね、『The Revenant』の仕事をやったことはこのアルバムに大きく影響したと思います。『The Revenant』の仕事を引き受けていなければ、『async』も違うものになっていたでしょう。もちろん風だとか水、雨といった自然界の音は子供のときから興味がありました。しかし自然の音とホワイトノイズと音楽を真剣に組み合わせて、『The Revenant』の劇中で使う音楽作品として仕上げるのは自分にとって初の試みだったので、それをやった経験は今回のアルバムにも活かされました。

次作の構想はもう練っているのですか？

いくつかアイディアはあります。優先したいことがその日によってコロコロ変わってしまうんですよ。でも本気で実現したい夢があります。そのうちのひとつは、友人の高谷史郎とオペラをやることです。彼とは1999年に始めてコラボレーションして、オペラをやったんですけど、それ以降も一緒に何度かインスタレーションなどをやってきました。この新しいオペラは2019年に公開できるように考えています。まだ企画段階で、今色々話し合っている最中です。

ツアーをする予定は？

『async』の音楽はツアーには向かないんです。ライブで演奏するにはちょっと難しいんで。なので展示やインスタレーションなどをやりたいですね。今ちょうど東京のワタリウム美術館で展示をやっている最中なんですよ。来場者には理想的な環境で音楽を聞いて欲しいので、5.1chサラウンドの良いスピーカーを設置させてもらって、タイの有名な映像作家Apichatpong Weerasethakulに今回のために新作の映像も制作してもらいました。こうやって、色々な都市で丁度良い空間を見つけて、ワンデイ・リスニング・パーティーなどをやって廻りたいです。

最近では、日本の70年代や80年代のエレクトロニック・ミュージックが海外から注目を集めています。あなたがYellow Magic Orchestraの一員として活躍していた時代にリリースされるも、日本国外では見向きもされなかった音楽が、いまどんどんとリイシューされています。

そうですね。僕も知らない若いバンドやアーティストに連絡をもらったり、ファンだと言ってもらったりすることはあります。若い人の多くは、70年代、80年代の初期テクノ・ポップやエクスペリメンタルな電子音楽に興味があるみたいです。当時は、日本にとって不思議な時代でした。東京ではテクノ・ポップやエクスペリメンタルなバンド、パンク・バンドなんかがどんどん出てきていて、大阪では70年代くらいからノイズ・バンドがたくさん出てきていた。しかし彼らとはそれほど繋がりがなかったんですよ。とても不思議に思っていました。

伝統的な日本の音楽にも強い関心があるようですね。その方面の勉強をしていて、どういったことを学びましたか？

昔よりも、伝統的な日本の音楽に興味を持つようになりました。若い時はよくわからなかったんです。そういったことを学ぶ機会がないですからね。だから今聴くと、伝統的な日本の音楽って新鮮に聴こえるんです。そして音楽の仕組みがとても複雑で理解するのが難しい。日本の伝統音楽の理論は現代の音楽理論と全く異なるものなんです。とても難しいですが、学んでいて面白いですね。今の音楽システムを再構築、再考することになるんで。だから勉強しています。

あなたは音楽や政治において、昔からとてもグローバルで広い視野を持っていると思います。グローバリゼーションが世界の各地で崩れつつあるように見える今、ニューヨークという街に住んでいてどう感じますか？

以前から、日本人の僕がニューヨークに住むことについて疑問を抱いていました。僕はアメリカ人ではない。アメリカは、もともと先住民たちが住んでいた土地が奪われてできた国です。しかし僕はアメリカ人でもなければ、ネイティブ・アメリカンでもない。極東の全く違う国の出身です。日本の男がニューヨークに住む正当な理由はあるのか？そんなとき、Donald Trumpが大統領になりました。そしてTrump政権が生まれたあと、ニューヨークの州知事（Andrew Cuomo）がスピーチで言った言葉が心に響きました。彼は、ニューヨーカーとして、黒人も障害者も女性も、皆同じだと発言したんです。それを聞いて、僕がなぜここに住んでいるのかわかりました。